日本で最初にパントマイムが披露されたのはいつ?
この記事は公開前の稿です。検索結果には出しておらず、内容は変わります。
パントマイムは日本で生まれた芸ではありません。では、日本の舞台で最初に演じられたパントマイムはいつ、誰が何を演じたものだったのでしょうか。当時の資料をたどって見ていきましょう。
最初の舞台はどんな公演だったのか?
大正初期のマイム受容を論じた野田はるかの論文に、答えの候補が書かれています。1912年(大正元年)10月に帝国劇場で上演された『犧牲』が、「日本初の本格的なマイム公演といわれている」というのです。[1]
帝国劇場は興行ごとに『帝國劇場繪本筋書』という冊子を出していて、1912年10月の筋書もいまに残っています。その筋書には十月興行の五番目の出し物として「第五 無言劇『犧牲』一場」と刷られ、脇に「ローシー氏作及指導」と添えられています。[2] 演奏は「帝國劇場洋樂部員」が受け持ち、上演時間は15分ほどの短い作品でした。[3]
筋書のあらすじによれば、舞台はエジプトの寺堂です。武士ユーラムは誤って法師を殺した罪で、ここに閉じこめられています。彼を哀れんで接吻を許す乙女がいればユーラムは自由になれますが、そのときは乙女が代わりに閉じこめられることになります。
そこへ麦を捧げに来た少女ナスラがユーラムに恋をします。高僧ラダメスに戒められても、ナスラは自分の身を犠牲にする決心をします。
ナスラ踊りに踊りて『戀の舞』を演ずれば、ユーラムは可憐なる風姿に魅せられ、思はず之に接吻す[4]
ナスラはすぐに尼僧に捕らえられ、寺堂の中へ連れ去られてしまいます。もう一度会いたいと願うユーラムの前にナスラが連れ出され、「訣別の舞」を舞って、また奥へ引き入れられます。物狂おしくなったユーラムが門を開けて救い出そうとしたそのとき、忍び寄ったラダメスが彼を刺します。あらすじは「ユーラムは遂に戀の犧牲となる幕」で終わります。恋が始まる場面も別れの場面も舞で見せる、短い悲恋の物語でした。
この舞台に劇場がどれだけ力を入れていたかは、筋書の巻頭に載った帝国劇場の挨拶文から分かります。
前興行よりはジー、ヴイー、ローシー氏を招聘し、専ら西洋舞踏教授の任に當らしめ候、(中略)今回は曾て倫敦に於て名聲を博したる自作無言劇『犧牲』を撿出し、夫妻進んで作中の人物に扮し、(中略)衣裳、背景、光線、大道具等總て之を泰西の範に倣ひ[5]
ローシーを招いて西洋の舞踊を教えさせ、今回は夫妻がみずから役に扮し、衣装も背景も照明も大道具もすべて西洋のやり方にならったと、劇場は宣言しています。[6]
その中心にいたG. V. ローシーはイタリア生まれの舞踊家です。帝国劇場の元専務西野恵之助がロンドンで、名優ハーバート・ビアボム・ツリーの推薦を受けて招いた人物で、妻のジュリア・リーヴェもロンドンの舞台で踊っていました。[7] 挨拶文のとおり夫妻はみずから舞台に立ち、筋書の配役ではローシーが武士ユーラムを、リーヴェが乙女ナスラを演じています。高僧ラダメスに扮したのは歌舞伎役者の松本幸四郎でした。[8] 『早稲田文学』の劇評もローシーの演技について「ローシー氏の武士ユーラムは表情にも動作にも相當の効果を收めたかと思ふ」と書いています。[9]
ところが、この劇評は言葉の無い演技より、舞台の見た目に驚いています。
私達は日中にゐて、あんな大膽な象徴的な背景に包まれたのは始めてゞある。幕明きの光輝も充分よく使はれてあつた。(中略)芝居の中味よりも、見た目の所々に面白いものがあつた。[10]
ロンドンから招いた舞踊家が自分で演じ、筋書も配役も劇評も残っているのですから、「本格的」と呼ばれるのもうなずける舞台です。
当時の呼び方はバラバラだった?
帝国劇場の筋書と挨拶文は『犧牲』を「無言劇」と書いていました。ところが当時の資料を突き合わせていくと、同じ舞台を別の名前で呼んでいる人が次々に出てきます。まず、作ったローシー本人はこの作品を「舞踏」と紹介していました。帝国劇場が英字新聞 The Japan Times に出した広告にいたっては「Ballet」です。[11] 同じ劇場が出したものでも、日本語では「無言劇」、英語では「Ballet」と、呼び名が違っていたことになります。
新聞はこの舞台を、上演のさなかから「パントマイム」と呼んでいました。初日から10日後の1912年10月26日、The Japan Times の週刊版は見出しに「PANTOMIME AND PASSION ARE WELL PORTRAYED」(パントマイムと情熱、見事に演じられる)と掲げ、『犧牲』を「a pantomime play」(パントマイム劇)と呼んでいます。ローシー夫妻らの演技には「words were quite unnecessary」(言葉はまったく要らなかった)という評を添えました。[12]
雑誌も同じ言葉を使っています。翌11月の劇評誌『歌舞伎』には廣政法天の「無言劇に就て」という記事が載り、題の「無言劇」にわざわざ「パントマイム」とルビを振っています。[13]
教わる側の受け止め方はまた別でした。ローシーの生徒だった石井漠は『犧牲』を「バレーだと思っていた」と述べたといいます。[14]
本人が「舞踏」、劇場の英字広告が「Ballet」、日本語の筋書が「無言劇」、新聞と雑誌が「パントマイム」、生徒が「バレー」と、一つの舞台の呼び名がこれだけ違っていたのです。
しかも「日本で最初」という言い方まで、上演のさなかからありました。先の The Japan Times 週刊版が同じ記事の中で、『犧牲』の上演を「the first performance of Western pantomime on the Japanese stage」(日本の舞台で最初の西洋パントマイムの上演)にあたると書いているのです。[15] もちろん、これは劇場で舞台を見た記者の評価です。
日本語の劇評にも、この舞台が珍しがられていた様子が残っています。先の廣政法天の記事はこう始まります。
今度の帝劇で或る外國人が無言劇を演ずるさうで、我が國の劇壇では珍らしい事のやうに言はれますが、是れは何も新らしいと云ふものではありません。劇の一つの種類としては、西洋では時々演ぜられて居るのです。[16]
廣政自身は西洋で時々演じられている種類の劇なので何も新しくはないと考えていました。それでも書き出しには、日本の劇壇では珍しいことのように言われていると書き残しています。
「本格的」の一語は、後から加わりました。田中栄三は1927年に「ローシイの指導になるパントマイム「犧牲」」と書いています。[17] その37年後の1964年、田中は帝国劇場の番組の記録を並べたうえで、次の一文を書きました。
無言劇と称する右の二種は、ローシー氏が日本で最初に上演した本格的なパントマイムであった。[18]
そして2011年、野田の論文が同じ「本格的」という言い方で、「日本初の本格的なマイム公演といわれている」と書いたのです。[19]
呼び名はばらばらでも、「パントマイム」という呼び方と「日本で最初」という評価は、上演のさなかからそろっていたわけです。
さらに古い公演があった?
ところが、『犧牲』より5年も前の音楽会に、「パントマイム」と名のついた演目がありました。
その演目のことを書き残しているのは、作曲家の小松耕輔(1884–1966)です。小松は1957年の回想録で、1907年(明治40年)4月の音楽会をこう振り返っています。
翌明治四十年四月十三、十四の兩日、午後七時から牛込神樂坂の高等演藝館で樂苑會の第二回公演會を開いた。この時上演されたのが、小林愛雄作詞、私の作曲した「靈鐘」と、グーノーの「ファウスト」一幕、及び澤田柳吉氏作曲パントマイム「影法師」であつた。[20]
小松は1952年の別の回想でも同じ演目を「パントマイム(影繪)「影法師」」と書き、「大喝采であつた」と添えています。[21]
とはいえ、どちらの回想も上演から45年以上たってから書かれたものです。しかもこの夜は音楽家たちの演奏会でした。小松の言う「パントマイム」は、曲の題や曲の性格を表しただけの言葉だったのかもしれません。それとも、本当に人が舞台で演じた演目だったのでしょうか。1907年当時の資料に戻って確かめてみます。[22]
どんな内容だったのか?
手がかりの一つ目は、1907年5月の音楽雑誌『音楽世界』に載ったこの会の番組です。
一 パントマイム(影法師)壹幕 小林愛雄作[23]
その下には漁夫娘・漁夫・牡蠣賣の三つの役が並んでいます。番組はほかの演目を「吹奏樂」「歌劇」「舞」と書き分けたうえで、『影法師』を役の割り振られた一幕の演目として載せていました。同じ月の『早稲田文学』も「パントマイム『影法師』(小林愛雄作)」と書いています。[24] 小松の記憶にあった「パントマイム」の名は、当時の番組にもそのまま刷られていたことになります。
主催の樂苑會は前の年の第一回で歌劇『羽衣』を上演していました。ところが作曲した小松耕輔はその楽譜の例言に「去れど歌劇と云はんは、なほ餘りにうしろめたし」と書いています。[25] 自分たちの出し物を歌劇と呼ぶことにさえ、作った本人がためらっていたのです。
会が開かれたことは『早稲田文学』が報じていて、『音楽世界』の同じ号も「樂苑會の歌劇大會は四月十三日にありし盛なりと云ふべし」と書き、劇評誌『歌舞伎』の5月号も「四月十三四日牛込高等演藝館にて樂苑會第二回歌劇を開演す」と書き留めています。しかもこの『歌舞伎』には、その夜の客席にいた人の見物記まで載っているのです。「すの字」と署名した書き手が、友人と二人で見に行った晩のことを書いています。[26]
書き手はまず、番組を見て首をかしげます。
これは「影法師」といふパントマイムなのだか、影法師で見せるパントマイムなのだか一寸解らぬ。[27]
いよいよ『影法師』の番になると、幕の前に若い人が出てきて説明を始めました。
又幕の前へ二度目に出た若い人が現れ、パントマイムの説明をして、「これは前のものと違つて、藝術上餘程輕いものであるから、その積りで見て貰ひたい」といつて引込む。朋友は「輕いのが結構、今のは少し重過ぎた」といふ。「だつて今のは鐘だもの」と僕がいふ。[28]
幕が開くと、舞台の左右に張った白い布に土手の影が映っています。その傍らで合唱が筋を歌い始め、上手の土手には洋服を着た漁夫の娘の影が、下手の土手には煙草をふかす牡蠣売りの影が現れます。
娘がハンカチを振ると、牡蠣売りは上着を脱いで川へ飛び込み、手の影だけで抜き手を切って泳ぎ渡ります。ところがそこへ娘の父の影が現れ、牡蠣売りはまた川へ飛び込みます。父が去ると、今度は娘も川へ飛び込みます。最後の歌が「いまは人魚と海の底」と始まり、幕が下ります。[29]
書き手が感心したのは、この牡蠣売りの影の動きでした。
この牡蠣賣は中々科が旨い。
幕が下りる前には幻灯も映りましたが、二人には何の絵か分かりませんでした。
「今の幻燈は何だつたんであらう」と朋友に聞くと、「あれは海底に於ける牡蠣店を見せたのさ」「成程」と感心する。
番組に「パントマイム」と刷られていた演目は、白い布に映る影の芝居だったのです。いま思い浮かべるパントマイムとは、ずいぶん違う舞台でした。
しかもこの夜は、番組どおりには進みませんでした。『ファウスト』の前には和服の若い人が幕の前に出てきて、ファウスト役が病気で倒れたので軍楽隊の永井が代わること、メフィストフェレス役も風邪で出られないことを断ります。客席でクスクス笑う者がいると、和服の若い人は「嘘ではない」と一喝しました。演奏の途中では幕の内で物音がして、「演奏中止〳〵」という声まで聞こえてきます。最後の踊り『浦島』に至っては、パントマイムの説明をしたのと同じ男が出てきて、「演者が芝居へ出て居るので間に合はぬから、今夜は長唄だけを聞かせる」と断りました。[30] 番組に刷られているのは、あくまでその夜の予定にすぎません。『影法師』が予定どおり演じられたと言えるのは、客席でそれを見た人の見物記が残っているからです。
会場を出て神楽坂の通りに出ると、もう十時半でした。帰り道の二人はこんなことを言い合っています。
僕「一兩は高かつたねえ」朋友「鰻飯を食つた方が好かつた」[31]
二人はそのまま道端のおでん屋に入りました。主催した小松耕輔が45年後に「大喝采であつた」と振り返った夜は、客席の二人にとっては鰻飯のほうがよかった夜でもあったのです。
では、『影法師』は無言劇だったのでしょうか。『影法師』には合唱と管弦楽がついていました。[32] 1909年の『日本音楽沿革史』は同じ演目を「小歌劇影法師」と呼んでいます。[33] セリフが無かったと書いた資料は1点もなく、無言劇だったかどうかまでは分かりません。
それでも『影法師』は1907年の番組に「パントマイム」と明記され、役を割り振られ、客の前で演じられた舞台です。パントマイムと呼ばれた上演の記録として、帝国劇場の『犧牲』より5年古いことになります。
本当に最古?
「パントマイム」と呼ばれた舞台は、1907年よりさらに前の横浜にもありました。19世紀の横浜には外国人の居留地があり、そこでは西洋人が演芸を見せていました。1870年には本町通りに、欧米人のための劇場ゲイエティ座(Gaiety Theatre)が建てられています。[34] 居留地の外国人向けには週刊の英字新聞 The Japan Weekly Mail も出ていて、劇場や興行の評を載せていました。
1884年3月、そのゲイエティ座で、居留地の素人のミンストレル一座が慈善公演を開きました。ミンストレル・ショーは19世紀のアメリカで生まれた演芸で、白人が顔を黒く塗って黒人に扮し、歌と踊りと笑いを見せます。一幕の寸劇で番組を締めるのが定番で、1850年代からはドタバタの笑劇やパロディが多くなりました。[35] 出し物の呼び名は一定していませんでした。[36]
公演は土曜と月曜の2回でした。月曜の回の評は雨と寒さのなかでも客の入りがよかったと書き、こう続けます。
The elephant was apparently effected by the raw, cold state of the atmosphere, and was consequently not quite so lively as on Saturday, but the pantomime went well[37]
象は冷たく湿った空気にこたえたらしく土曜ほど元気がなかったが、パントマイムはうまくいった、というのです。評が「pantomime」について書いているのはこの一言だけで、演目名も筋も、誰が演じたかも書かれていません。
題名まで分かる記録は、その4年後に出てきます。1888年9月、オーストラリアの巡業サーカスであるウッドイヤー・サーカスが横浜にやって来て、天幕で公演を始めました。一座には日本人の芸人も出ていました。The Japan Weekly Mail の初日の評は曲馬、綱渡り、軽業、道化の芸を順に紹介し、最後をこう結んでいます。
the programme concluded with a comic knock-about pantomime entitled "The Four Lovers."[38]
番組の締めは『四人の恋人』と題したドタバタの喜劇パントマイムだった、というのです。19世紀の英語圏のサーカスでは、一晩の番組を短い笑いの小芝居で締めるのが決まりでした。題はおとぎ話や道化のドタバタで、演じるのは曲馬や軽業の芸人です。そうした出し物が pantomime とも呼ばれました。[39]
The Japan Weekly Mail は『四人の恋人』の筋までは書いていません。ところが同じ一座は5〜6年前にニュージーランドを回ったときもこの演目で番組を締めていて、現地の新聞がそれを「dumb farce」(無言の笑劇)、「dumb show」(無言劇)、「comic ballet」(喜劇バレエ)と呼んでいました。副題は「Love in a Tub」(たらいの中の恋)です。[40] 1888年の横浜の上演が無言だったかどうかまでは分かりませんが、同じ一座の同じ演目が、ニュージーランドでは無言劇と呼ばれていたのです。
題名まで分かる最古は1888年の『四人の恋人』です。「pantomime」と呼ばれた上演の記録なら、さらに4年前の1884年3月、寒さで象が元気をなくした晩のゲイエティ座までたどれます。[41][42]
注
野田「帝劇でのローシーの実践にみる」4。野田の註は大笹吉雄『日本現代演劇史 大正・昭和初期篇』(白水社、1986年)27を挙げるが、筆者は大笹の原本を確認していない。同じ1912年10月には、本郷座でもストリンドベルク作・小山内薫訳の台詞劇『犧牲』が上演されている(『歌舞伎』第149号「劇界一覽」90)。本稿の『犧牲』は、すべて帝国劇場のものを指す。 ↩
『帝國劇場繪本筋書』大正元年十月興行、早稲田大学演劇博物館蔵。以下、配役・あらすじ・洋楽部員の記載は同冊子による。 ↩
山田「G.V.ローシーの帝国劇場におけるバレエ指導と上演作品」註46。山田の典拠はローシー「ダンスに就いて」『婦人評論』1(2)、1912年、52で、筆者は原文を確認していない。 ↩
『帝國劇場繪本筋書』大正元年十月興行、あらすじ。 ↩
『帝國劇場繪本筋書』大正元年十月興行、巻頭の挨拶文。原文は行書体で、一字が判読できない。 ↩
挨拶文の「曾て倫敦に於て名聲を博したる」は、劇場の紹介文である。ローシーの来日前の経歴を調べた上野1992は『犧牲』にあたる作品を挙げておらず、山田2015(註13)は来日後の新作としている。 ↩
上野「日本初のバレエ教師 G. V. ローシー」。上野は、ツリーの推薦の話を西野がロンドンのヒズ・マジェスティ劇場を訪ねた折のこととして書いている。リーヴェの名は、筋書では「ミス、ジユリア、リーベ」、筋書の口絵では "MISS. J. REEVE" である。 ↩
ローシーのイニシャルは、筋書では「ミスタア、ヂー、ヴイ」(G. V.)、『歌舞伎』第150号の興行一覧では「ミスタア・シー・ヴィ」(C. V.)と表記が揺れている。 ↩
「十月の劇界」『早稲田文学』第84号、121。 ↩
同前。 ↩
山田「G.V.ローシーの帝国劇場におけるバレエ指導と上演作品」註35。山田の典拠は、「舞踏」がローシー「ダンスに就いて」51、「Ballet」が The Japan Times、1912年10月17日、4の帝国劇場の広告である。筆者はどちらの原文も確認していない。 ↩
"Imperial Theater Program," The Japan Times Weekly Edition, October 26, 1912, 174. 日本語訳は筆者による。十月興行は10月16日に始まり、11月上旬まで続いた(『歌舞伎』第150号「劇界一覽」、野田「帝劇でのローシーの実践にみる」4)。 ↩
廣政「無言劇に就て」54。同じ記事の中には、「無言劇」に「むごんげき」とルビを振った箇所もある。帝国劇場の1912年10〜12月の上演記録で、外国人が演じた無言劇は『犧牲』だけである(早稲田大学演劇博物館の上演記録データベースによる)。 ↩
野田「帝劇でのローシーの実践にみる」5。野田の典拠は松本克平『日本新劇史』(筑摩書房、1966年)551で、筆者は松本の原本を確認していない。 ↩
"Imperial Theater Program," 174. 日本語訳は筆者による。 ↩
廣政「無言劇に就て」54。 ↩
田中『女優漫談』33。原文は「大正六年の十月には」で、直後に「同二年の一月には」と続くことから、大正元年の誤植と判断した。 ↩
田中『明治大正新劇史資料』103。「右の二種」は、『犠牲』と、大正2年1月興行の『マリー・ド・クロンビツレ』を指す。 ↩
野田「帝劇でのローシーの実践にみる」4。 ↩
小松『懐しのメロディー』66–67。1907年の番組(注23)は『影法師』を「小林愛雄作」とだけ記しており、作曲者の名は載せていない。 ↩
小松『音樂の花ひらく頃』60。 ↩
「パントマイム」の語が無いまま、無言の芝居を指す語が当てられた舞台もある。1903年12月の『白百合』第1巻第2号では、雛人「ハムレット劇の書割」が『ハムレット』の劇中劇を「無言劇」と書き、落々「演劇の改良を誤る勿れ」が同じ場面に「默劇」とルビを振っている(67–70)。1908年12月の『歌舞伎』第101号は、東京座の新派劇『縁の糸』の劇中に「默劇」が入り、その六つの役を誰が演じているかを観客に投票させたと伝えている。 ↩
『音楽世界』第1巻第5号。会場は「牛込神樂坂上高等演藝舘」、日時は「四月十三(土曜)十四(日曜)兩日午後七時」と刷られている。 ↩
「樂苑會第二囘歌劇大會」『早稲田文学』第17号、彙報。 ↩
小松『歌劇羽衣』例言。 ↩
『音楽世界』第1巻第5号、彙報。「雜」『歌舞伎』第85号、126。すの字「歌劇大會見物」『歌舞伎』第85号、66–76。 ↩
すの字「歌劇大會見物」69。 ↩
すの字「歌劇大會見物」72。直前の演目は、鐘を題材にした歌劇『靈鐘』である。 ↩
すの字「歌劇大會見物」72–73。続く二つの引用も同じ。 ↩
すの字「歌劇大會見物」73–75。 ↩
すの字「歌劇大會見物」76。 ↩
『早稲田文学』第17号の彙報は「歌劇とパントマイムとは樂苑會を中心とせる人々の合唱及管絃合奏によつて演じられた」と書く。 ↩
加藤編『日本音楽沿革史』88。 ↩
升本『横浜ゲーテ座』4–5。升本はこの劇場を「本町通りゲーテ座」と呼び、1885年に山手に開場したパブリック・ホール(1908年に The Gaiety Theatre と改称、升本の呼び方では「山手ゲーテ座」)と区別している。 ↩
Toll, Blacking Up, 56–57. ↩
Mahar, Behind the Burnt Cork Mask, 161. ↩
The Japan Weekly Mail, March 29, 1884, 296. 日本語訳は筆者による。一座の名は Yokohama Amateur Minstrels。公演日は、評の「Monday」「Saturday」から3月22日(土曜)と24日(月曜)と判断した。 ↩
The Japan Weekly Mail, September 22, 1888, 271. 日本語訳は筆者による。日本人の芸人の名は Chosaburo と書かれている。 ↩
St Leon, Circus & Nation, 2, 318, 332; St Leon, "Circus"; Baston, "'New' Hippodrama, or 'Old' Circus?," 23. ↩
"the laughter-provoking dumb farce of the "Four Lovers."" Thames Star, July 26, 1882; "a comic ballet, "Love in a Tub."" Auckland Star, September 4, 1882; "the afterpiece — a dumb show entitled "Love in a Tub"" Bay of Plenty Times, September 11, 1882; "the whole concluding with the comic ballet, "The Four Lovers."" New Zealand Herald, March 15, 1883. いずれも Papers Past(ニュージーランド国立図書館)による。日本語訳は筆者による。 ↩
これより前にも、横浜の英字新聞が pantomime の語を使った記事はある。1870年9月の The Far East は、横浜に来た Birch と Köhler の二人組の出し物に「a shadow pantomime」(影絵のパントマイム)を挙げている。二人は10月1日まで横浜で公演したが、The Japan Weekly Mail の公演評はパノラマや歌を書き、shadow pantomime には触れていない。1879年6月の The Japan Weekly Mail は、横浜の町会所で日本の商人たちが催した余興を「some excellent pantomime and dancing」と書き、龍の場面、からくり人形、二派の神職の論争、リボンの踊りを挙げている。1879年7月、グラント将軍を招いた新富座の英文番付は、大切の芸妓惣踊りを「PANTOMIME AND BALLET」と訳している。1881年の英国の王孫の来日の行事表にある「Pantomime」は、新富座での芝居見物の予定にあたると見られ、見物の記録は見つかっていない。 ↩
1861〜69年の横浜の英字新聞は、オンラインで読める形で残っていない。この時期については、升本『横浜ゲーテ座』の年表の原本と、上海・アメリカの新聞で、居留地に来た一座を一つずつ当たった範囲で、pantomime を演じた記録は見つからなかった。明治の日本語の新聞は、有料のデータベースに入っていて当たれていない。 ↩
参考文献
日本語資料
- 上野房子「日本初のバレエ教師 G. V. ローシー:来日前の歩みを探る」『舞踊學』14、1992、1–11。
- 『音楽世界』第1巻第5号、1907年5月。
- 加藤庸三編『日本音楽沿革史』松下楽器、1909。
- 『歌舞伎』第85号、1907年5月。
- 『歌舞伎』第101号、1908年12月。
- 『歌舞伎』第149号、1912年11月。
- 『歌舞伎』第150号、1912年12月。
- 小松耕輔『歌劇羽衣』修文館、1906。
- 小松耕輔『音樂の花ひらく頃:わが思い出の樂壇』音樂之友社、1952。
- 小松耕輔『懐しのメロディー:音樂家の回想』文藝春秋新社、1957。
- 『白百合』第1巻第2号、1903年12月。
- すの字「歌劇大會見物」『歌舞伎』第85号、1907年5月、66–76。
- 田中栄三『女優漫談』聚英閣、1927。
- 田中栄三『明治大正新劇史資料』演劇出版社、1964。
- 『帝國劇場繪本筋書』大正元年十月興行。帝国劇場、1912。早稲田大学演劇博物館蔵。
- 野田はるか「帝劇でのローシーの実践にみる大正初期日本におけるマイム受容とその限界」『表現文化』6、大阪市立大学文学研究科表現文化学教室、2011、3–20。
- 廣政法天「無言劇に就て」『歌舞伎』第149号、1912年11月、54–55。
- 升本匡彦『横浜ゲーテ座:明治・大正の西洋劇場』第2版、岩崎博物館出版局、1986。
- 山田小夜歌「G.V.ローシーの帝国劇場におけるバレエ指導と上演作品」『人間文化創成科学論叢』18、2015、59–68。
- 『早稲田文学』第2期第17号、1907年5月。
- 『早稲田文学』第2期第84号、1912年11月。
外国語資料
- Auckland Star. September 4, 1882. Papers Past.
- Baston, Kim. "'New' Hippodrama, or 'Old' Circus?: Legacy and Innovation in Contemporary Equestrian Performance." Popular Entertainment Studies 7, no. 1–2 (2016): 21–38.
- Bay of Plenty Times. September 11, 1882. Papers Past.
- The Far East. Vol. 1, no. 7. September 1, 1870.
- The Japan Times Weekly Edition. Vol. 32, no. 4. October 26, 1912.
- The Japan Weekly Mail. June 14, 1879; March 29, 1884; September 22, 1888. Internet Archive.
- Mahar, William J. Behind the Burnt Cork Mask: Early Blackface Minstrelsy and Antebellum American Popular Culture. University of Illinois Press, 1999.
- New Zealand Herald. March 15, 1883. Papers Past.
- St Leon, Mark. "Circus." Dictionary of Sydney, 2010.
- St Leon, Mark Valentine. "Circus & Nation: A Critical Inquiry into Circus in Its Australian Setting, 1847–2006." PhD diss., University of Sydney, 2006.
- Thames Star. July 26, 1882. Papers Past.
- Toll, Robert C. Blacking Up: The Minstrel Show in Nineteenth-Century America. Oxford University Press, 1974.
最終更新:2026-10-05